水無瀬離宮(水無瀬殿)の新御所(上御所)の築垣の推定ライン

豊田裕章

 水無瀬殿の本御所が建保四年(1216)の大洪水で顛倒流出したため、他の場所を選んで新たな御所の造営が進められました。天台密教における教相・自相を集大成した『阿娑縛抄(あさばしょう)』の「安鎮日記集」には新御所・南御所で行われた安鎮法に関する詳細な記載と指図(さしず)(図)が載せられています。この史料によれば、新御所(上御所)と南御所は、ともに平地に立地したものであり,『明月記』に見える山側に造られた山上御所とは別の御所であると考えられます。その築垣(ついがき)の大まかなラインについてはこれまでの拙稿でも言及してきました。

本稿は、水無瀬殿の新御所(上御所)・南御所の築垣の推定ラインに関して、これまでの拙稿で言及した内容とともに最近さらに考察を進めたことをふまえて書いたものです。

1.新御所(上御所)の諸門・安鎮法のための仮屋の配置図

 図1は、天台密教における教相・自相を集大成した『阿娑縛抄』に収められる「安鎮法日記集」の建保四年十二月から五年一月の本文や指図をもとに、水無瀬殿新御所(上御所)の築垣、諸門や安鎮法のための仮屋の配置を概念的に示したものです。それぞれの仮屋の内部には修法のための穴が設けられています。

図1 水無瀬離宮(水無瀬殿)新御所(上御所)の門と安鎮法の仮屋の配置 概念図

2.「堤」・「堀田」の推定図

 地誌類には旧関電社宅の辺りに大正・昭和初期まで「堤」状の土地や「堀田」と呼ばれた土地が伝存していたことが記されています。図2は、島本町所蔵の「摂津国島上郡廣瀬村地圖」からトレースして、その図の中の地割の中で、「堤」や「堀田」がどの地割に相当するかを推定して示したものです。この「堤」状の土地は、『阿娑縛抄』に記されたような水無瀬殿の新御所(上御所)と南御所の築垣の痕跡である可能性が高いと考えます。なお、「摂津国島上郡廣瀬村地圖」は、その製作年代が書かれていませんが、明治時代の地租改正時のものと推定します。なお、「堀田」として呼ばれていた土地は、築垣の外部をめぐる側溝と犬走りと通称されるものである可能性も考えられます

図2 大正・昭和まで伝存していた「堤」・「堀田」の推定図

3.新御所(上御所)・南御所の築垣の推定ライン

 図3は、国土地理院地図に『阿娑縛抄』に見えるような水無瀬殿の新御所(上御所)と南御所の築垣の推定ラインを記したものです。その推定にあたっては、『阿娑縛抄』等の文献史料、島本町所蔵古図、法務局所蔵の和紙公図、地番の変遷、江戸時代の絵図、昭和30年代に森蘊氏を中心に奈良文化財研究所が調査された際の実測図、国土地理院所蔵の昭和20年代のものなどの航空写真(空中写真)、現地の位置関係などをもとに考えました。                                
 

図3.新御所(上御所)・南御所の築垣の推定ライン